ヨガと閉店するレンタルビデオ店に行く

雑記ブログ

今朝の冷え込みは布団を頭から被るくらい、やっぱりまだ2月だから仕方ないのか。

朝5時をまわったけれど布団から出る気が起きない。

スマホを持つ手もなるべく布団に忍び込ませて、起き上がるには勢い付けなきゃと思いながらまだ決断出来ない。

間違って買ったレギュラーサイズのホッカイロはいい働きをしてくれている。

来シーズンはミニとレギュラーと両方のサイズを使い分けするのが良さそうだ。

今日は土曜日、YouTube生配信「さかがみ家のチャンネル」が何よりの楽しみだ。

ヨガの日

月2回のヨガの日、いつもより遅い時間に家を出てる時に見た山は見惚れる美しさ。

山を見るだけで元気がもらえる気がする。

今日はヨガの前に先生が話したかったらしい。

前からぎっくり腰の痛みに悩まされていた先生だが、毎日のストレッチは欠かすことがないそうだ。

けれどストレッチが腰に効いてるでもなく、今回新たな運動を取り入れたという。

毎朝、布団の中で行うというその運動はうつ伏せ状態で足を立てて腰を持ち上げる体制で100数えること2セット。

この運動をやり出してからは腰の痛みがすっかり消えたのだという。

(bing.com/imagesより画像お借りしました)

これはプランクと言うらしいが、自分もたまにやる動きだったがこれが腰にいいとは知らず目から鱗だった。

体幹を鍛える動きでよくインナーマッスルとか言われる。

ぎっくり腰をやったことはないが違和感は時々あるから、プランクを自分も毎回起き抜けの体操に取り入れようと思った。

それにしてもヨガの先生も朝、布団の中で体操するとは…内心同じようなことをしていると知って驚く。

誰しも口にしないだけで自身だけで体に良いと思ってやっていることはあるのだろう。

今日のヨガも始まりから完全に眠気との闘いで、(エェィ 寝てしまえ)とは思ったが何とか終わりまでこなして来た。

普段から昼寝はしないが寝て起きた後のようなスッキリ感がある。

今日もレンタルビデオ店へ

以前にレンタルビデオ店で買ったDVD「永遠のこどもたち」を観たが、昼間観たのにちょっと背筋がゾワッとした。

「永遠のこどもたち」は買う時には気付かなかったがホラーがかった映画だった。

古い洋館にある地下室ってそれだけで怖い感じがするし、ホラーと思わずに観だして初めて気づいた時見るのを止めようかどうか迷う。

結局最後まで観たが、霊らしきものが出てくる割には「何だ、そうだったんだ」という結論。

本も映画も意図が分からないものはいくつになっても分からないままだ。

午後は息子と一緒に26日に閉店するレンタルビデオ店に懲りずに行ってみる。

さすがに商品は残り僅かになっていて息子だけが2点購入。

韓国ものは沢山残っていて昔見た懐かしい韓国ドラマが並ぶ。

一時期王子様のようにあがめられたリュ・シウォンを見つけて彼はスキャンダルに沈んだなぁなんて感慨に浸る。

チェ・ジンシルも自ら命を絶ってしまったし、韓国の有名人も人気を維持するのは大変だ。

パラサイトのイ・ソンギュンも然り。

韓国に限らずどこの国でも有名になると有名税以上に過酷な仕打ちがあるようで、有名になることって果たして幸せなのかと思う。

何かしら大きなものを掴むと人生がガラッと変わってしまいそうで自分は臆病だから怖い。

平凡で誰にも注目されず、印象に残らず生きるのが一番と思う今日この頃だ。

こう書いてみるとかなり後ろ向きだと思うが、後ろ向きでその奥にちょこっと前向きさが潜んでいればいいと思っている。

直葬希望

いつも思っていることだが、お葬式なんて無駄は省いて直葬がいい。

お坊さんにお経を唱えてもらったりお葬式にお金を使う必要性がこれから先減っていく傾向にあるのなら、それはいいことだと思う。

自分の終わりの頃はそれが当たり前になっているといい。

いずれにしても自分の最期なんてどうなっていてもあがきようがない。

遺言を残したとしてもそれを確かめる術はないのだし、面倒な葬儀はこれからは淘汰されていくようならそれでいいと思う。

「葬式にお坊さんを呼ばない人」が増えている理由

そもそも、葬式仏教は在家者にとって絶対必要なのではない。

ダイヤモンドオンライン

在家という言葉は出家と相反する言葉のようだが、どちらにも属さない人間は何になるのだろうか。

出家は何となく分かる気がするが、仏の道を極めるために修行する人で修行は神社やお寺になる。

在家は出家をせずに普通に暮らしながら仏の道を極めるために日々精進する人を言うらしい。

だから自分みたいに普通に暮らしてはいるが仏の道を極めるつもりはない者は在家とはならない。

そもそも仏の道とか全く信心していないから何者でもないのだろう。

自分が生きているうちは行きたい時に神社にお参りするし、納骨堂にも行きたい時に行くけれどそれと仏の道を信心するのは別物だと思っている。

何なら家とか車の中でお祈りしたり頭に思い浮かべるだけでもいいと思うくらいだ。

宗教の世界は信じるものは救われるのだろうから信じる人は信じれば良いし、こじつけられるものではない。

それに世襲制のお寺の今後は自然に先細りしそうなので、直葬が当たり前の世の中にいつかはなっていそうだ。

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