月に1度のランチ会

雑記ブログ

今朝の脳トレでは45歳という結果だった、今日の脳トレが365日目だと脳トレアプリが教えてくれた。

相変わらず苦手な脳トレはあるけれど布団の中や起きてから数分で終わるので、気楽に出来て気に入っているアプリだ。

ランチ会

今日のランチ会は凄く人気のある店と聞いていたので、賑やかにしていると注意されるんじゃないか気が引けると思っていた。

店内は自分たちみたいな女性客が多くて、あちこちの席での話し声が盛んで逆に自分たちの声を拾うのが大変なくらいだった。

ランチ会は13時から始まって15時過ぎまで過ごしたが、周りをあまり気にしないで済んだのが良かった。

自分以外は皆忙しく過ごしているようだが、解散してみるとあまり話の内容が記憶に残らないのはいつものことだ。

かなり適当に話を合わせているところが自分にはあるのだろう。

食事は美味しく頂けたが元々食事に対する興味が薄いからまた来たいという気持ちはない。

高齢者のうつ

高齢者のうつが認知症より怖い理由【精神科医・和田秀樹先生が解説】

命を縮めてしまううつ病の怖さ

毎日が発見ネット

確かに認知症にはなりたくない。

友人のお母さんが認知症になって薬を飲みだして1年を超えたけれど今のところ症状は落ち着いているようだ。

一時期は徘徊があったりして友人の家にお母さんを連れて来て過ごしていたが、それも1ヶ月が限度でお母さんはその間は泣いたり怒ったり毎日が大変だったようだ。

とどのつまりはお母さんの気持ちは「家に帰りたい」ということだった。

そんな訳で実家に帰ることになり友人がその代わり毎日通って食事を届けたりお世話をして、薬の服用もあるからか穏やかになったお母さんだ。

でも認知症以上に高齢者のうつは深刻だと和田秀樹さんは言うしそうかもしれないと自分も思う。

生きる気力を失うその姿は実父がうつそのものだったと思うから多少は分かっているつもりだ。

精神が病むとそこまで悪くはない体まで蝕むのは見ていてどうすることも出来ず結局父親は自ら命を絶った。

特に実母は眠る時間すら与えられず話を聞かされて、父の晩年は周りを巻き込んで誰もが関わりたくないと思わせるものだった。

だから精神科にも通院していたけれどそれは薬を処方してもらうためで、うつの進行を止められるものではなかったと思う。

年齢と共に弱っていく体と付き合うことが出来ず、何かと病院にかかっては処方してもらう薬が年々多くなり見ているこちらが薬の量に心配になっていた。

科によってそれぞれが処方してくれる薬は父の訴えに沿うものだったから、薬が増えるのは仕方なかったと思う。

年をとると何かと言えば病院にかかるようになるから。高齢者はそれでなくても服用する薬があるものだ。

自分がまだその域に至っていないから分からないが、老いとうまく付き合っていけなかったのが父親なんじゃないかと思う。

今も日本では毎年2万人以上の方が自殺で亡くなっています。15~39歳の死因のトップは自殺です。高齢になるほど他の病気で亡くなる人が増えるのでその順位は下がりますが、歳をとるほど自殺する人の数は増えるのです。

(毎日が発見ネットより)

和田秀樹さんのおっしゃる通りで高齢者のうつは直接的な死に繋がると思うと、意外に多いと思われる。

父親の葬儀の際の担当の方が偶然自分の昔勤めた会社の同僚で、表面上”病気療養中”とお悔やみ欄に載せる父のような例は多いという内情を聞いたものだ。

ちょうど実母が心臓に病が見つかり入院治療があったりしたので余計に父親は気弱になったのかもしれない。

気持ちが弱いところがある人だったから、後に残されるのが怖くて先に逝ってしまったとも思う。

姉からのライン

昨夜は滅多にないことだが眠れなくて気がつけば23時を回っていた。

昼間に珍しく札幌に住む姉からのラインがあった。

今更なのだが自分に昔与えた暴力で記憶が途切れてしまっている部分を思い出したくて知りたいとのことだった。

感情にまかせてのラインだと思うが昔の自身の行為を何故か今になって懺悔したい?悔恨の波に襲われているのか?

感情に流されると父親みたいに心を病むと思うが姉の場合はどうなのか。

例え姉妹と言っても別の人間で、特に仲良く過ごしてはいないから姉の心の内は分かり得ない。

自分以外の姉妹にも暴力はあったと思うが、恐らく一番痛めつけられたのは自分だったのかもしれない。

途切れた記憶の部分とは・・・その時は確か姉にこれから(自分を)痛めつけるから待てと言われて、自分は痛みを経験しているから恐れをなして家を飛び出した。

それは小学校1年か2年の夏休みだったと思う。

泣きながら母親の働く工場を目指して駈けた。

もう1人の姉が一番上の姉に捕まえるように言われて自分の後ろを追って来た。

恐らく自分はこれまでにないくらい必死で、吐きそうになりながら止まらずに走り続けた。

途中振り返ると、諦めたのか追って来る姉の姿は見えなくなっていた。

工場に着いて守衛の人にひたすら母に会わせて欲しいと懇願した。

しばらくして会えた母親に泣いて訴えたが結局仕事中の母親に帰るように諭された。

それ以上の無理は言えず振り向きもせずその場を去った。

けれど家に帰れば折檻が待っているから友達と言えないが知ってる子の家に上がり込んでいた。

お昼に1度目昼食を摂りに帰る母親が(途中まで追って来た)姉に探させたようで、自分の居場所は割れてあっさり家に戻された。

札幌の姉はその出来事の記憶が飛んだとかで聞きたかったようだ。

今になって思い出してもどうなることでもないのに…と思いながらも自分の記憶を返信した。

もう終わってしまったことを今になって後悔したところで意味はないし、感情に流されて過去の行状を悔やんだところで無駄に思うのだ。

でも姉の昨日の感情はもうすでに収まってケロッとしているかもしれない。

感情なんていつまでも同じじゃなくてむしろ移ろいやすいと思うから。

自分にとって昔のことが良くも悪くも感情を押し殺すきっかけになったと思っている。

親に頼ることも期待外れで結局は自分の痛みになって戻って来る。

母親は姉妹の諍いが父親に知られると「お母さんが怒られる」と言って、子供だった自分は心に閉まって置くしかないと思った。

姉の暴力はそれからも続いたが泣けば余計に痛い目に遭うだけで、「泣くな」と止められ何があっても泣かなくなった。

出来るだけ自分をコントロールするしかないし、そうやって凌いで来た。

そんなことが思春期の時に精神的に病むことになったと思う。

人といると食事が摂れなくなって吐き気に襲われそうで咀嚼を止めるしかなくなった。

学校の調理実習や修学旅行、社会人になってからの歓送迎会・懇親会・忘年会・新年会とそれこそ行きたくないがために度々退職したり。

それも10年超位の時を経て恐怖は克服したが、親や姉妹・幼なじみの友人にも誰にも話したことはない。

今の時代になって「会食恐怖症」という言葉が出始めて自分はそれだったという思いに至る。

思うのは昔が辛かったからこそ、昔を思えば今が容易いと言う事だ。

先に嫌な事を終わらせたと思えば今がいい人生に思えるものだ。

自分は恨みに思うよりもそんな過去があったと受け入れている。

姉に対してそこまでの本音は言えなかったけれど、それだけの関係だから仕方ない。

自分にとっては忘れてはいないけれど今更思うことではなかった。

けれど心の奥底に閉じ込めておいたものが開いてしまって、昨夜はその感情が睡魔を追いやってしまったらしい。

スマホで坂上忍さんのブログを見に行くと、映画が面白くて夜更かししているとあったからまだ起きているんだと何故か嬉しくなった。

でも昨夜眠れなかった分は今日眠ればいいのだ。

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