朝から失敗してしまった。
コンビニで朝食を買う際にカフェラテを大きなサイズで注文したつもりが、レギュラーサイズを注文したらしい。
自分自身にレギュラーサイズを頼んだ自覚がないまま、紙コップの大きさを気にもせずセットしてLの表示を押して待つ。
(あれ?いつもより満杯…というか溢れそう…)
ビールジョッキのように溢れるギリギリまで満たされてしまったカフェラテ。
溢れそうにも関わらずそこにLサイズ用の蓋を被せたものだから、当然中味が溢れてしまった。
店員さんを呼ぶと「拭きますよ」とウエットティッシュを取りに1度姿を消した。
戻った店員さんが差し出してくれたティッシュで手を拭きながら、Lサイズを注文したとばかり思っていたことを話す。
店員さんの確認ではR(レギュラー)サイズ、自分も改めてレシートを出して見たらレギュラーサイズだった。
ラージのつもりでレギュラーと言ったのか…そこのところはまったく意識の外で自分の言った言葉に自信がない。
紙コップの蓋をレギュラーサイズに取り替えて店員さんに汚れたカップの底まで拭いてもらってお礼を言ってお店を後にした。
レギュラーサイズのお金でラージサイズのカフェラテを飲む…これって前に逮捕されたどこかの校長と一緒だと、お店から出て気付く始末だ。
自分に悪意はなかったと言い訳になるけれどこれも加齢のなせる技?というか勘違いで済まされるのか?
次に買うときには気をつけようと思う。
それにしても逮捕された校長先生は、レギュラーサイズの紙コップにラージの量を入れて蓋はしなかったってことかな?
実際やってみて紙コップから溢れるまでには至らないことは分かった。
コンビニの店員さんからおとがめがなかったのはボーッとした老人の過ちと大目に見てくれたのだろう・・・有り難く思わなきゃいけない。
そしてこんな失敗をしていながら、お店から出るまで状況の認識がとても軽かったことに我ながら驚く。
若い頃なら失敗にたじろいでオドオドしたり、もう二度とこのお店には来れないくらいの恥ずかしさを持ったと思うのだ。
でも自分は溢れ出たカフェラテを拭いてもらいながら変に?堂々としていた気がするし自分のミスを謝るでもない気持ちでいた。
拭いてもらってお礼は言ったけれど、お店を出て車の中で食事をしながら「はて?ラージサイズのお金を払わなくて良かったのかな」と思った次第。
あまりにも反応が遅くて自分でも呆れる。
差額を請求されなかったけれど、請求されて払うべきものだった。
普通に「ありがとうございます」と汚れを拭いてもらったお礼だけ言って去って来たのだ。
悪気もなく態度も平然としてたのはやはり加齢で羞恥心が消えて認知も衰えがあるのだろう。
失敗しても気持ちが落ち込むこともないし、これからもっとやりたい放題になるかもしれない。
気持ちの揺らぎがないことはいいけれど、次にまた失敗したら少しは反省して落ち込まないと失敗ばかり続く。
罪悪感もなくしっかり食べたので公園を歩く。
ウォーキング
早朝に息子を送って朝食も摂ったところで、腹ごなしも兼ねて公園内を歩く。
今朝はさほど寒くなく風もなく、歩く道は適度に固くなっていて歩きやすい。
日中はもっと気温が上がって溶け出すのだろうけど、土の出た路面もまだ凍っていて固くて歩きやすい。
日の出も随分早くなった。
少し前まではなかった看板というか表示版があちこちに出ていて、”通路を妨げないように”という内容のものだった。
なるほど、バードウォッチャーの方たちが集まってたむろしている時があるから、そのことに対する注意喚起のようだ。
自分も歩いていてモモンガに集まる人たちに紛れて監察したことがあった。
歩く人たちには邪魔になって、公園管理の担当にすぐさまクレームが寄せられたのだろう。
対応は早いと思うし、いつも利用させてもらう公園だから気をつけたいと思う。
「ボダ子」
赤松利市さんの「ボダ子」を読み終えた。
これが赤松利市さんご自身の体験を元にしていると思うと考えさせられる。
題名の「ボダ子」は赤松利市さんの娘さんでボーダーから来ている意味を持つ愛称だ。
ネグレクトが原因とみられる境界性人格障害を持つ娘さんが、ボランティアに赴いた先でついた愛称らしい。
やっぱり赤松利市さんの本は強烈なインパクトを持って自分に迫って来た。
体験全てが実話に基づいているのだからそれもそのはずだと思う。
いくら学歴があって頭が良くても生き方が難しい人もいて、赤松利市さんご自身山あり谷ありで平坦ではない道を歩いて来た人生のように思う。
会社を興し100人規模の従業員を抱えていた時もあったのに、羽振りが良くなった途端に女性に目を向けて仕事をおろそかにしてしまう性質の主人公。
娘の問題や娘の母親(主人公と離婚はしている)の執拗な追求から逃げて”なんとかなる”と解決を後回しして放置する性格の弱さ。
会社は破綻して震災復興で一山当てるはずがスッカラカンどころか追い剥ぎに遭い(自身が招いた)、自身のことで手一杯で娘を顧みなかったツケが更に悲惨な別離を迎える。
けれど親のせいで障害を抱えてしまったと思われる娘が色んな人間に利用されてしまう姿が痛々しかった。
土木工事関連の孫請け的組織では作業員用に上乗せした賃金分を搾取して裏金としたりキックバックとか、不当行為で主人公もお金を得ていた。
そんな泡銭みたいなお金を当てにする算段は、絶対に危険な結果を生むことは明らかだ。
どこか一か八かという感覚があって、主人公(赤松さん)はギャンブルはしないのだが人生がギャンブルみたいなのだ。
追い込まれるような生き方になって当然だと思う部分があるのは読んでいて分かる。
なのに追い詰められるのを分かっていて逃げ場として手を出した女性も結局は内縁の夫に発覚し反社?の人間から強請られることになり墜ちる一方。
きっと生き方が主人公は下手なのかもしれない。
「ボダ子」を読み終えて赤松利市さんの娘さんのその後が気にかかる。
ボランティア活動で知り合ったホスト上がりの男とその一味と姿を消してその後、赤松利市さんと再会は出来たのだろうか。
助けてあげられていたならいいけれど、現実は厳しいのだろうか・・・。
赤松さんに娘さんのことを聞きたいくらいだが次の本「女童(めのわらわ)」に進む。
「女童(めのわらわ)」は「ボダ子」の前日譚となっているから娘さんのその後の事は分かる訳ではない。
どこか昔の「積木くずし」を思い出す。
境界型人格障害というのは患者の91%が小児期の外傷体験を持つと言われ、赤松利市さんの娘さんもネグレクト体験を持つようだ。
自分だって親としてどうかとは思うけれど、「ボダ子」を読んでいると親になっても我が身が大事というか本能に突き進む人はいるものなんだと実感する。
それと震災復興という名目で色んな人がボランティア活動や復興に携わってはいるけれど、どこにでも悪意ある人たちが一定数いることも忘れてはいけないと思った。
赤松利市さんの体験からそんな裏の部分を少しだけ知った。
読み終わって決して後味のいい内容ではなかったけれど、こんな世界もあるんだと学んだ気がする。
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