退院した友人に花を贈る

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朝から快晴で気温も上がりそうだ。

そろそろ虫よけのグッズを使う準備をした方がいいだろうか。

100均で買った虫よけの芳香剤を玄関に貼る程度でどれだけ効果があるか分からないけれどやらないよりはいい。

昨日作ったコロッケの残りを朝食にも出して平らげた。

油も高いからいつも揚げ物にせずに揚げ焼きにしていたから、コロッケ作ったのも揚げるのも久しぶりだった。

友人が退院

昨日股関節の手術で入院していた友人が退院した。

入院したのが確か1月25日で26日に手術、翌日からリハビリが始まった。

入院期間が45日間、友人にとって1ヶ月半は長かったと思うが、自分にしてみるともうそんなに経ったのかという気分。

自分の事じゃないと所詮そんなものなんだと思う。

毎日リハビリの日々、歩けるようになるまでどれだけ頑張ったのかは結局友人自身にしか分からない事。

自分に出来ることは・・・と考えてネット注文で花を送ることにした。

最近は冷凍のお弁当で1食辺り500円前後のものがあるらしく、ご飯支度が要らないのが魅力だしお弁当を送ろうかと一瞬考えた。

でも自分で試してもいないのに送り付けるのもどうかと二の足を踏んでしまい、結局無難な花を贈ることにした。

冷凍のお弁当はいつか贈り物をする候補になるか・・・それとも冷凍のお弁当というのは定期配達用なのかな。

今は宅配のお弁当もいろいろあるから、冷凍のお弁当もそういったものなのかもしれない。

本当は退院後1週間位経ってから贈るのがいいらしいが、彼女は来週から仕事に復帰するらしい。

だから彼女が確かに在宅しているうちに届けたくて、早く注文をした。

バックナンバーの公演

バックナンバーの2023年のツアー日程によると、北海道は4月8日に札幌ドームでの公演があるようだ。

バックナンバーは魅力的だけどもう自分の体力がついていかない気がするから、公演の模様やセトリはツイッターとかネットで見たいと思う。

公演の間ずっと立っていることも出来ないことはないかもしれないが、きっと後からドッと疲れると思うから、無理はしたくない。

でもきっといい曲ばかりだから生で見たら感動するだろうなぁ。

行かないと思いながらも気持ちは引きずる。

今は車の中でもスマホでもバックナンバーの曲を中心に聴いているからどうしても、注目してしまいがちだ。

バックナンバーの曲を聴くと気持ちに張り合いが出てくるというのか、若い頃の気持ちになるようだ。

ラストエンペラー

昨日から「ラストエンペラー」のDVDを見始めたが、やっぱり一気には見られずまだ途中だ。

今は溥儀が満洲国の皇帝に祭り上げられたところだ。

女スパイの川島芳子が登場していかにも「スパイです」といった出で立ちに違和感がある。

でも映画だから短い時間の登場場面で女スパイを印象付けるにはそれ相応の格好をする必要があったのかな。

それに溥儀の弟溥傑の奥さんが何だか意地悪そうな役柄に描かれていた。

溥傑の奥さんである嵯峨浩(さが ひろ)という人は、溥儀が見捨てた妻の婉容と一緒に行動してギリギリまでお世話していたと思う。 

あくまで「流転の王妃」という著書を読んでのことだが。

「ラストエンペラー」は溥儀を中心に描かれているから仕方ないが、それでも奇異な環境で育ったからか残酷なこともしているし、映画は立派に描き過ぎかなと思う。

けれど色んな方向から見るのは楽しい気もする。

昔、見た時はやり過ごしていたなと思うのは宦官たちの悪行。

溥儀の目の行き届かないのをいいことに長年にわたって、宦官たちは不正を働き自分たちの懐を温めている。

発覚しそうになると証拠隠滅を図る。

こういった不正は昔も今も変わらないようだ。

久しぶりに見る「ラストエンペラー」」は当時の衣装や髪型が新鮮。

韓国の時代劇もやたら大きく存在感のある髪型にするが、韓国とはまた違っていて独特な感じだ。

紫禁城のダイナミックさも素晴らしいし、何も知らずに見ていた時と比べるともっと発見があるかもしれない。

今は博物館としてあるらしい紫禁城は、あとでじっくり建物を見てみようと思う。

何でもネットで見られるから本当に有り難いことだ。

ラストエンペラーは坂本龍一さんの曲が壮大なのでラストに向けて聴くのも楽しみにしている。

映画だから演じる人は、本人とは似ていないのも仕方ないが自分は婉容がアヘン中毒で悲惨な最期を迎えたことを気の毒に思っている。

溥儀という人と一緒にならなければ違った人生だったはず。

ついつい映画の婉容と実物の婉容が全く違う人に見えて困った。

「たられば」は言っても仕方ないことだけれど、婉容のあまりにも気の毒な最期を思うともっと幸せになれたんじゃないかと思う。

逆に自分を思うと、多分誰と結婚しても同じだったかなと思ったりする。

自分を分析すると良くも悪くも自分ありきで誰かの意見に寄り添うことがない。

相手に流されているようであって、根本的なところでは一歩も引いていないようなのだ。

だから例え相手が誰であっても自分と違う人間に対して歯向かうことはなくても、呼応することもないのだと思う。

だから1人がいい、1人が一番気楽で心休まると思うのだろう。

これは自分の悪いところではあるが多分このまま一生を終えるのだろうなと思う。

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