朝の7時でも真っ暗なのは雨のせいだろう。
予報ではあと1時間半後に止むらしいがその後また降り続くらしいから今日はウォーキングは無理だと諦める。
読みかけの本を一気読みしようかと思う。
葉真中顕著「Blue」
「ロストケア」が断然面白かった葉真中顕さん、他にも「絶叫」を記憶はあるが内容はすっかり忘れている。
今の時代の問題ある部分をじんわりと訴えてくるから、読む側にもじわじわと響いてくる感じがする。
天童荒太さんの本も同じ空気を感じるがどちらも男性作家だ。
“青”という名前から”ブルー”と呼ばれて育った男の子が悲惨な境遇の中で成長し犯罪に手を染めながらも誰かを救い”ブルー”自身も救われた結末。
“ブルー”の生い立ちが綴られながら起こった事件の周辺の人物模様が一見”ブルー”と関わらずに展開する。
最後には”ブルー”に集まってくるというか戻って来るのがいいのだが、自分の記憶力が悪くて「この人は誰だっけ」と度々ページを戻ることもあった。
「Blue」の話に限らず世の中には酷い育ちをする子供たちがいることを誰もが知っている。
知っていて目を背けて見ないようにしているだけなのだろう。
実際に事件になって明るみになっても子供が犠牲になったニュースの放送に対しては見たくないとクレームが来ることがあると聞く。
「Blue」はフィクションではあっても現実とさほど変わらないような話だ。
虐待する親が事件の果てに殺害されて残された子供たちを一時期に収容した児童相談所の児童福祉士の女性が話すのだが「事件はともあれ親から離すことが出来て良かった」というのはその通りだと思う。
そして子を守る場所である児童相談所を新しく作るとなるとその場所の住人が反対運動を起こすことを嘆く場面がある。
何かの施設を造る時、必ず起こる反対の声というのは本当に我が身のことしか考えない懐の狭さが見えてうんざりする。
人間の醜い部分が下手な理由と一緒に現れる。
「Blue」は後味の良い本ではないが、後味が良くない本の方が面白いのも事実だ。
コンビニ弁当
和田秀樹「体に良いから毎食納豆!」それって正しい?60代からは「食べない害」のほうがよっぽど危険である
婦人公論.jp
60代以降は一食で様々な食材が食べられるコンビニ弁当はむしろ体に良いとされる。
と言うのも特定の食品ばかりを食べる行為は健康に逆効果だと言うのである。
栄養学的に何も意味がなさそうな食材であっても、その食材に含まれる微量物質(人体に必要な量が少量の栄養素)が摂取出来る。
なので同じものばかり食べないでいろんな食材を食べることが重要らしい。
またしても和田秀樹さんのご意見だがなるほどと思う。
若い頃の自分は精神的に病んでいて(病院にかかったわけではないが)人前で食べることは辛かった。
なので仕事先で摂るお昼ごはんにしてもとにかくやっつけ仕事みたいな感じでいつも似たようなパンを持参して味わうことなく胃に入れていた。
お昼ご飯の時間を何とかやり過ごすことしか考えていなかった。
何かしらの食事会や飲み会なんかは自分にとっては拷問に感じていたくらいだ。
いかに不自然じゃなく飲み食べているように見えるか、周りの目を気にするだけで食を味わうのとは程遠い。
大抵は3分の1程度しか食べられなかった気がするから、残す罪悪感もあり食事の機会は恐怖だった。
こんな調子だったから仕事先も転々としたし、友人はともかく異性と親しくなる前に食事を避けるから恋人関係などなれるはずもなかった。
自分の気持ちをコントロール出来ず不安定だったと思うけれど若さで良くも悪くも乗り切ったのかもしれない。
最近になって自分のように人と食事を摂ることが苦手な人たちがいることを知った。
”会食恐怖症”と言われるものらしいが、その記事を読んだ時に納得したし自分だけじゃないんだと思いホッとしたけれど未だに誰にも話したことはない。
時代も変わって来て心の病に一定の理解が進むのはいいことだと思う。
「会食恐怖症」は人に話す必要はないことだし、自分の子供の頃からの姉妹関係が起因しているのは自分自身がよく分かっている。
10年くらいかかったけれど病院に罹ることもなく克服できたのだから、それは自分以外知らなくていいことだ。
何とか家族が出来て食事も普通に摂れてランチ会なども参加できるくらいになったのだから、それが楽しいかは別にして一般に溶け込んでいるのが自分にとっては安心出来ていることだ。
今も食に対して拘りは薄くて凄く食べたいものなどはあまり思い浮かばない。
けれど日常生活ではバランスよく肉や魚や野菜を摂ろうという意識は芽生えている。
それも年を重ねたからこそ気持ちが落ち着いて自分の体を考えるようになったからだと思う。
会社組織でも昔のように忘年会·新年会·観楓会なんてやっているのだろうか。
これらが泊まりで行われる時は最悪だなと思っていたし、仕事よりもこういったコミュニケーションが辛くて仕事を変わって来たものだ。
今、観楓会と打つのに変換出来なかった。
最近は観楓会とは言わないのかな?もしかしたら死語なのかもしれない。
ちょうど今頃の時期に泊まりで行われる親睦を図る行事があったものだ。
今は個人を優先するのだろうから、色んな催しが変化したりなくなって来ているかもしれない。
この記事にある納豆もつい最近まで毎日食べていたけれど、食べなくなって逆にお腹が張らなくなった分調子がいい気がする。
オナラは出るがお腹が張る方がよっぽど辛かったから、個人差だろうけど今の自分に納豆は必要ないみたいだ。
煮豆は好きだからこれから冬にかけて作って食べる機会は増えるだろう、納豆じゃなくても豆を食べる方法はある。
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