雪が降る寒い日

ウォーキング

今朝は坂上忍さんと同じくらいの時間帯で目覚めたようだ。

違うのは坂上忍さんは何個目かのブログに”最高の陽気”とあるけれど、こちらは悪天候であること。

明け方まで雨の音がしていたから、雪にはならないと思っていた。

でも起きる頃には雨の音が消えて、嫌な予感がしてカーテン越しに窓の外を覗くと雪が降っていた。

天気予報通りになった。

気温は低いと思ったから、ストーブはタイマーで点けていた。

昨日タイヤ交換をしたけれど、地域の殆どの方は多分夏タイヤを装着しているだろう。

幼なじみの友人は今日は透析のある日だが、やはり夏タイヤだと言う。

透析後に認知症のお母さんのところに行くけれど、雪が積もったら困るからおにぎりを作ってすぐに帰ると言っていた。

こんな時でも隣に住む弟さん夫婦には頼れないらしい。

雪はしんしんと降り続くけれど、積雪にまではならないと思いたい。

夏タイヤでもゆっくり走れば大丈夫と自分に言い聞かせる。

それに今日は祝日で朝の道路は車も少ないはず。

湿った雪が車に乗っかって、スノーブラシで落としてから出発する。

いつもより10分くらい早めに家を出て仕事の息子を送る。

走行中の辺りでは桜が咲き始めて青空ならキレイな景色なんだろうけれど、この雪では何だか冴えないものだ。

こちらの天気は良くないけれど、ゴールデンウイークでイベントのあるさかがみ家カフェ近辺が好天で何よりだ。

雪は午前中いっぱい降り続いて、それでも今のところ溶けて水たまりが大きくなっているたけだ。

雪みたいな雨が降っている。

青い壺

ウォーキング出来ないので読書が進み、今日は有吉佐和子さんの著書「青い壺」を読み終えた。

ある陶芸家が生み出した青磁の壺が色んな人の手に渡り、海をも渡った末に作った張本人である陶芸家の前に姿を現す。

幾人もの手に渡った壺は、陶芸家が先生と仰ぐ目利きの専門家らしい鑑定人?評論家がスペインで購入した。

評論家は自身の持つ知識で青い壺は”唐物”だとか”12世紀初頭の作品”だとか言う始末だ。

陶芸家が自身の作品だと説明するも、目利きは劣っていないと言い張る評論家は話を受け付けずに場はお開きになる。

何とも笑い話というか滑稽ではあるけれど、青い壺が渡った先々の話がとても面白かった。

定年退職した夫との暮らしぶりは、今でいうところの夫源病一歩手前と言った感じの妻。

この本が時代を感じさせないのは、人間はいつも考えることは変わらないからなんだなぁと思った。

夫婦で出かけた高級デパートで美しい青磁の壺を気に入った妻は、退職先の元上司に贈ること提案して元の勤務先に夫は壺を持って出向く。

だがどうしたことが、古巣にやって来た夫は元いた職場の席に着いて当たり前のように仕事を始める。

奇異な振る舞いに周りは騒然となるが、夫本人は至って普通の様子が怖い。

こうして夫の上司に渡った青い壺が、高価な贈り物として色んな人の手に渡ることになる。

青い壺が旅をしているような話だ。

青い壺は何の意思もないままある時は贈り物として捧げられ、またある時は追いやられてあちこちに居場所が変わる。

そして青い壺が渡った先にそれぞれの人生ドラマがある。

最終的に青い壺を作った本人の元に姿を現すだなんて、何てロマンチックというか(ロマンとは言わないのか)小粋?な展開なんだろう。

橋田壽賀子さんの「渡る世間は鬼ばかり」を彷彿させるような、平岩弓枝さんの小説などが頭に浮かぶ。

ある時は70代の比較的中流階級の夫人の手に渡る青い壺。

それ自体は婦人が縁日で安く手に入れることになっただけなのだが、そこに至るまでの話が面白かった。

50年振りに開かれる三泊四日のクラス会に出席することになった婦人は、あちこち体の不具合も生じてなかなか気乗りしないでいる。

体に不具合はあっても家の中での夫人は大きな存在である様子で、かしずくお嫁さんの大変さが窺える。

持ち物一つに迷いながらも同居するお嫁さんに手伝ってもらって、婦人は何とか旅支度を終えて見送られる。

その旅が女性のしかも高齢者らしい旅が見もので、自分が一緒でもあり得るような現実感のある話でとてもよくわかる。

話し出したら止まらないし、トイレタイムも必要で幹事が計画した通りには行かない。

せっかく計画した幹事にしたら勝手に行動するグループがいたり、計画になかったことを新たに加えたりと10数人集まるとそれは大変そうだ。

自分ならこんな集まりには絶対に参加したくないが、こうして傍から見ていると「あるある」な情景が頭に浮かぶようだ。

とにかく旅程は最初から押して時間通りに事は進まないのだ。

そうでいて誰も自身のせいだとは思わないのも、この年齢で女性なら尚更なのも良く分かる。

観光する体力はとうになく、けれどお喋りは止まらないのも女性ならではで、世話人の女性がクタクタになって来年からは参加しないと怒り呆れている。

けれど疲れたはずの旅行から帰った婦人を見た家族は、思いのほか婦人が生き生きとして満足気な様子を見て驚く。

疲れたとか旅館の食事が質素でがっかりしたのが事実だとしても、婦人が満足気なのはやはり古い友人と会い思う存分お喋り出来たことが大きいのだろう。

自分は高校時代の友人と去年久しぶりに会った時に、当時は聞かなかった彼女の気持ちを聞いた時にそんなことを考えていたのかと思ったことがあった。

最近、我が家に突然お茶1箱を持って来た友人も、当時の思い出を話して帰って行った。

二人共がある意味カミングアウト的な心の内を話していたから、年齢が行ったことで話せることがあるものなのかなと思った。

だからクラス会と言う行事があるのかもしれないが、自分はそんな時に自分の事を話せるかどうかは分からない。

それにクラス会自体に行きたいと思うかどうかすら分からない。

そしてクラス会での旅先で婦人が唯一買った青い壺は、やがて孫娘に譲られた。

その後孫娘の同僚で恩師でもあるスペイン人の女性が故国に帰る時に、青い壺はプレゼントとして渡されるのだ。

「青い壺」は何故か今売れている本らしいが、それはともかくとても読みやすくて時代を感じさせない本だった。

でも着物を着てクラス会に行くくらいだから、ドラマとか映像で見るとしたら昭和の高度成長期といった時代なのか。

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