苦手な裁縫に取り組む

雑記ブログ

今日は息子が休みなので送迎はない。

休みとあって気楽だったからか昨夜は朝まで目が醒めなかった。

大抵は夜に1度くらい目が覚めて少しスマホを見た後、再び眠りにつくのだが昨夜はそれさえなかった。

自分にとって良く眠れることと排便コントロールが上手くいっていたらそれが幸せの基準かと思っている。

「女童(めのわらわ)

赤松利市さんの娘さんのことが書いてある小説「女童(めのわらわ)」を読み終えた。

「女童(めのわらわ)」の前に読んだ「ボダ子」の前日譚とあり、娘さんの視点からの心模様が父親である赤松利市さんの文章で書かれている。

読書好きの赤松利市さんが娘さんのレポートから読み取ったのだから、その心の内はしっかり理解しているのだと思う。

父親と娘の関係としてこれ程、お互いを思いやって寄り添って来たのに何故こんなにこじれてしまったのかと思う。

自分と親の関係からしたら、自分はもっとわがままとか俗に言う不良になっても良かったんじゃないかと思うくらいだ。

「女童(めのわらわ)」の父親のように仕事を放り出して会社を潰してしまう結果になるまで、娘に寄り添い障害を乗り越えようとする父親像は理想的にも感じる。

けれど感受性の鋭い娘は寄り添う父親の影の部分を見逃さない。

会社の事務員として手伝いに来ている女性と父親が違う関係を持っていることを見抜く鋭さを持っている。

娘に寄り添い何があっても頭ごなしに怒ることはない優しい父親だけれど娘を分かり得ない部分があって、きっと後手後手に回るしかなかったのかもしれない。

娘が壊れていくさまを未然に防ぐのではなく、起こってしまってから対処するしかなかったところはやっぱり「ボダ子」でも感じた逃げの姿勢が招いてると思う。

娘の母親とは離婚が成立していたが娘に関わることは、娘の母親である元妻とも関わらざるを得ない。

この母親は病的なヒステリーで元夫を追い詰めなきゃ気が済まない性質を持つ。

娘の言葉で”仕方ないやん、みんな心の病気なんや”と発せられるが、確かにそうかもしれないと思った。

父親・母親・娘の3人が何かしらの悪循環で心が病んでいて、一生懸命さが空回りしているような感じだ。

「ボダ子」へと繋がる「女童(めのわらわ)」は読んで良かったし、あとがきにあった赤松利市さんの娘さんのその後も知ることが出来た。

そして赤松利市さんはご自身の作品についてエゴサーチをされているようで、なるほど作家さんは皆そうなのかもしれないし評判に対する返答もあるのかと思った「女童(めのわらわ)」だった。

確かに作品は一作一作が我が子のようなものだろうし、どういった評価や評判なのか気になるところだ。

作品の評価とか評判は気になるところだけれど、人のいうことに振り回されるのも大変だからそこは気にしない方が精神的にはいい気がする。

自分は読者レビューのようなところに投稿することはないが、気になった本や映画のレビューは見る事がある。

「ボダ子」や「女童(めのわらわ)」に関してはまだ見ていない。

自分が思ったことを書く前に見てしまうと、見たことを自分が思った事と混同してしまいそうだ。

「女童(めのわらわ)」に出て来た娘の心療内科開業医が小児性愛的な医師として登場するが、これは全くのフィクションと述べている。

実際に病院で診療を受けているから、あらぬ疑いがかかるとお医者さんにも影響がでてしまうから否定しなければならなかったのだろう。

娘の入院先の病院の様子は昔見た映画「カッコーの巣の上で」を思い出させた。

鼻チューブというものをして食事を流し込むようにすると、目つきに生気がなくなるというのはロボトミー手術に似ている感じだ。

娘が蛇腹腕になるくらいリストカットする意味やその時の気持ちだとかが書かれていて、「そういうものなのか」と随分知らなかったことを知った気になった。

知ったから理解したことにはならないが、自分が持ったことのない感情できっとそこまで気持ちが追い込まれた際の逃げ場なんだろう。

けれど「ボダ子」でもあった通信制高校で理事長の息子(婚約者がいる)との交際で妊娠した娘が妊娠中絶に至る経緯はノンフィクションらしい。

こういった波乱を乗り越えて実在する娘さんが今は元気で幸せに暮らしているということは、読者が本当に知りたかったこと。

あとがきでホッとしたし、年齢が自分の息子と同じなんだと思うとますます平穏無事を祈らずにはいられない。

裁縫

息子の部屋着としてジャージ(下だけ)を買ってきた。

拘りの強さでずっと中学校から使用していたジャージを未だに家では履いていた息子だ。

膝の部分は何度も破れて大きくなった穴を当て布をして縫っていたし、ウエストのゴムも度々入れ替えた。

でもそんなジャージも10年以上履き続けていたら補修は無理になって来て、そろそろ限界だと息子にも言い聞かせて何とか納得させた今日この頃なのだ。

息子は横に大きいけれど背は低いからジャージの下の丈詰めが必要だ。

ジャージだから生地は薄くて丈詰めくらい裁縫が上手な人ならミシンでチャチャッと片付けてしまうだろう。

苦手なことは多数あるがあいにく裁縫も苦手な自分と来ている。

買って来たジャージは3本で果たして今日中に終わるのか・・・針に糸を通すのも老眼で見えないし、かと言って糸を長めにすると絡まってしまう。

ジャージはまだいいとして、今年6月に閉店するお店のテナントで買っていた大きめサイズのズボンがもうすでに撤退したのかお店を見に行ったら置いていなかった。

あの手のズボンは生地が固くて自分では丈詰めは無理だと思う。

世の中いろいろ進化しているけれど、身につけた途端に服が体に合わせてくれるようにならないものだろうか。

ファッションに疎い人間にとってはオシャレなんてどうでもいいから、最低限の身だしなみとして体型に合って身にまとう服があればいいのだから。

かと言って現実はズボンは消耗品だから買わなきゃいけないし・・・あちらこちらとお店が閉店してリフォームしてくれるお店を探さなきゃと思う。

グズグズ言っていてもジャージは縫わないと裾がびらんびらんとしたままだ。

息子たちが中学生の頃、少し先を行っている子たちはジャージはハサミで切ってわざとびらんびらんで着用していた。

今もイケてない息子はちゃんと裾は縫わないと落ち着かないだろうから、この後はのんびりと裁縫の時間にしようと思う。

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