息子を早朝に送る。
今朝はかすかに降った雪が車と地面を覆っていたがすぐに無くなるだろう。
まだ暗い朝が雪でほんのり明るくてこの程度の雪ならロマンチックでさえある。
でも雪がこんな生易しい面だけじゃないのはわかっているから、油断しちゃいけない。
そんなことを思った矢先にやたらと雪が勢いよく降り出した。
息子は降る雪が勢いを増したことを単純に喜ぶが、どの方向を向いても車の正面に向かって降る雪。
息子を送り終えてコンビニで朝食を買って外に出てみると、あれだけの勢いだった雪はパッタリと止んでいた。
明るくなったら少しは歩けるかもしれない。
月が見ていた
コンビニで買った朝食を車の中で食べていて、ふと見上げるとやんわりと照らされた半分だけの月が目の前にあった。
自分は食事にトラウマがあるからなるべくは1人の食事がいいのたけど、その1人の食事をおぼろげな月に見られたような気がした。
でもまた雪が降り始めるとほんのり見えていた月は静かに姿を隠して行った。
自分の気持ちに応えてその身を隠してくれたのか…単に自然現象だろうけど。
降ったり止んだりと忙しい雪に車から降りて歩くタイミングがつかめない。
6時半を過ぎて明るくなって来たからまずは「ともぐい」の続きを読むことにする。
途中でハタッと1日だったことを思い出し急遽神社に向かいお参りを済ませて来る。
ウォーキング
雪も止み晴れ間が出て来て、目まぐるしく変わる天気だがこれなら歩けるだろうと思い公園内を歩くことにする。
せっかく雪が止んだのはいいが、今度は風が強くなり結構な雪が舞い出したと思ったら吹雪始めた。
あまり良くないコンディションだけど公園内ならゆっくり歩けばまだ安全だと思う。
公園内にあるスケートリンクには早くも除雪作業をしている方がいるかと思えば、強風が吹く中で傾斜する道の雪かきをしてくれている方もいる。
降った雪が軽いから砂丘みたいに(見たことはない)歩いた足跡もすぐに消してしまう。
これじゃ犯人捜査とかに支障を来すだろうなと思う…犯罪が起きたとしたらだが。
吹雪いてはいるが晴れてはいるし気温も高め。
ただ歩き終えて車を運転し始めてみるとかなりの吹雪具合で、何と言うかドライアイスの中を走行してるみたいだ。
明るいけれどライトをつけて走るべきなのか…。
車を止めると風で車が揺れる。
除雪について
今年はまだ雪が少ないから除雪の苦情も少ないかもしれない。
自分なんて最近の除雪でキレイになった道路に感激してお礼を言いたいと思ったくらいだ。
でも…とあるブロガーさんのブログを見ていてやっぱりわが町は除雪は行き届いていないんだなぁと思った。
とあるブロガーさんはご主人の転勤で道内をあちこち巡っていらっしゃる。
どこの町でもその町で訪れた店のいいところを紹介してくれて良心的な方とお見受けする。
今は中標津に住んでおられるがその前がわが町だったはず。
中標津の町の除雪にいたく満足していて、その前に住んだ町(わが町)の除雪状況にはウーンと唸るにとどめておられた。
確かにその前の冬は道路に関して自分も行政に怒りのブログを綴っていたものだ。
そして毎年のように新聞に載る読者の投稿は除雪の苦情が非常に多い。
確か韓国では寒波でアイスバーンになった道で転倒する人たちが沢山いて、その責任問題が裁判にまで発展していると聞いた。
韓国・酷寒と大雪で凍りついた道路…転倒事故は誰の責任なのか
韓国で冬場の凍りついた路面での転倒事故が相次ぎ、法廷で責任の主体をめぐって連日攻防が繰り広げられている。専門家は、危険の予見可能性と管理怠慢の有無がポイントだと指摘している。
Yahoo!JAPANニュース
転倒は本当に怖いことで転倒するしないで人生が大きく変わる大問題だ。
日本人は多分転倒で行政を訴えるとか言う人は少ないと思うし、万が一訴える人がいたらすぐさま自己責任論が席巻すると思う。
転倒すれば痛い上にお医者様でも痛み止めしかなす術がなく、それでも痛みに耐えるのは自身。
「ともぐい」の熊爪のように強烈な痛みを生きる証と思える強靭さはなかなかないものだろう。
手術で回復してもその後杖が必要にでもなったら、冬の道をほんの少し歩くだけでも恐怖でしかない。
見るからに危険な路面で転倒して全てが自己責任では片付かないというか、転びたくて転ぶ人はいないのにあまりにも悲しい。
でも自身が経験してその立場になってみないと災難は分からないものだし、春が来たら危険な冬の悪路を皆忘れ去る。
毎年毎年、年齢を重ねて行って我が身に危険が起きて初めて道路の危険を実感する。
冬を乗り越えれば安心かと言うと、安心の先の気の緩みで転倒してしまうかもしれない・・・そう思うとやっぱり自己責任なのか。
自分みたいに真冬に勝手にウォーキングをして転んだなら自己責任だと思うから慎重にしたい。
「ともぐい」
今日もやっぱり「ともぐい」を飽きずに読んでいる。
そこで「ともぐい」からふとカラスについて考えた。
いつもたくさんのカラスを目にするがカラスはどこで生涯を終えるのか、死骸を見たくはないが見ないし死後どうなるのか。
と言うのも「ともぐい」では雄熊が雌熊と交尾するためには、雌熊の連れている子熊を食べてしまうことが稀にあるとあったから。
確かに雄のホッキョクグマが雌熊の子熊を追って食べてしまう画像がネットにあった。
雌熊も子熊を助けようと追うが、次は我が身が雄の餌食になるのを恐れてあきらめて引き返す様子だった。
もしかしたらカラスもともぐいとかがあるのかと思ったのだ。
基本的に野生の鳥は弱ると、外敵から身を隠すため、こんもりした森林などへ逃れます。そこで力尽きて、ポロッと枝から落ちて死んでいくケースが多い。
東洋経済ONLINE 『カラス学のすすめ』(杉田 昭栄 著
カラスもともぐいをするらしくけれど鳥類では例外だそう、きっと後始末するかのように片付けてしまうのだろう。
今まで疑問に思ったことがなかったけれど、ともぐいとは意外に多いらしい。
それに考えたくはないが人間とて極限の餓えで共食いという行為が過去にあったはずだし、異常な世界が未だにあり得るのかもしれないがこれ以上あまり考えないようにしよう。
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