今日は息子が休みなので送迎はないが、15日なので神社にお参りに行くことにする。
息子も願掛けしたいのか、一緒に行くと言う。
足の爪周りの腫れはまだ時間がかかりそうだから、多分そんな願いを込めるんだろう。
息子も行くとなると近場の駐車場に止めるのがいいだろうから、8時半に家を出て神社に向かう。
今日は晴れてはいるが風が強いので、自分は用心のためにスノーズボンも履いて暖かくして出掛ける。
神社でお参り
神社には大きな道路を通って向かったのですんなり着き、運よく近場の駐車場に1台分の空きスペースを見付けて止めて、お参りをしてくる。
境内はやはり路面が出ているはずもなく滑って転ばないように細心の注意を払う。
あの大雪だったのだから仕方ないとは思うけれど、ここで転んだらお参りしに来た意味がないとも思う。
お参りは並ばずにすぐに出来たが、すれ違った人たちは外国の人たちだった。
最近はインバウンドで珍しくもないけれど、そんなに大きくないこの町でも立ち寄る人が多くなったと感じる。
お参りを終えて車に戻るのに歩いていると、こちらに向かって来るチワワが目についた。
人懐っこいチワワらしく会う人ごとに寄っていく姿が可愛い。
自分たちにも近づいて来てくれたので、息子と2人で撫でさせてもらう。
こんな少しのことで心が癒されるのだから、動物の持つ力は本当に素晴らしいと思う。
神社から帰って途中まで見ていた「坂上どうぶつ王国」の続きをティーバーで見る。
今回の話題は「坂上家」や「さかがみ家」ではなく、とある会社でひん死の猫を皆で介護して回復させた様子が放送された。
建設会社の付近に居ついた2匹の猫のうちの1匹が、カラスにやられたのかひん死の状態で発見された。
その子は動物病院で余命2日と宣告されたが、会社の従業員たちで交代のお世話ののちに回復して会社で育てる飼い猫となった話だった。
実際の動画もあり歩けなかったくらい重症だった猫が、会社の人たちが交代してのお世話で元気になっていく姿は見ているこちらも気持ちが晴れていくようだ。
仕事が終わって疲れた体を会社の猫が癒してくれるとは、体はともかく心が穏やかになるだろうから疲れも少しは減りそうだ。
SNSで猫たちがいる会社として有名になり、相乗効果なのか仕事の依頼が増えて業績がいいらしい。
今回は感動もので心温まるものだったが、自分としてはさかがみ家の保護猫の様子の方が見たい。
そうは言っても今は毎週放送がある「坂上どうぶつ王国」だ。
さかがみ家の様子も取材するだろうけど、番組のマンネリ化も防がなきゃならないのかもしれない。
次週の放送は坂上忍さんの念願だった老犬ホームの話題らしい。
とにかく毎週放送はあるから自分もティーバーで見逃さずに楽しみたいと思う。
「ものがわかるということ」
養老孟司さんの「ものがわかるということ」を一応読み終えた。
一応という言葉を使って思うのが、時折「一応」を「いちお」と言ったり書いたりする人がいる。
その表現が好きじゃなくて「違う」を「違くて」と言うのと似た感じでどちらの表現も嫌だ。
歌詞で歌われてるとそれ程じゃないが、何故か普通に文章にされると軽く不快になる。
やっぱり人間が古いのかなぁと思う。
同世代でも略語を使ったり、若い人に倣ってなのか短めのラインにしたり句読点を省くようにしたりといつまでそんなことに拘るのかと思う。
それはいいとして、「ものがわかるということ」というタイトルの本。
読んで自分が分かったこともあるし分からなかったこともある。
養老孟司さんは世の中分かったつもりでいて、分かっていないことが多いんだよと言っているのだと思う。
学校の授業で倫理社会というのが高校時代にあったが、あの授業はどこか国語の授業に似ていて好きだった。
教えてくれる先生が時折映画の話をしてくれたことも授業が好きだった理由かもしれない。
先生の名前も姿形も全く覚えていないけれど、今回はそんな倫理社会の授業を思い出して読んでいた。
倫理社会の授業よりももっと嚙み砕いて、誰もが分かりやすいように書かれた本だと思う。
それと今の自分の考え方でいいんだと認識したと言うか、養老孟司さんの気持ちと呼応する感じがして安心したりもした。
”自分探し”とか”生きる意味”とか自分には無縁の言葉だが、この本では切り捨てるんじゃなくて論理的に答えを導いてくれる。
もし深刻に考え悩んでいる人がいたら何かしらの答えが出たり、気づいたり出来る感じの本だった。
納得したことをいくつか挙げてみる。
”知ることは自分が変わること”(それ以前の自分が部分的に死んで生まれ変わっていること)
”学ぶとは自分の見方が変わること”
”自分は探すものではなく創るもの”
他にも”都市以外の場所で一定期間過ごす”言わば”現代の参勤交代”を養老孟司さんは推奨しているらしくこのアイデアはなるほどと思った。
どこか和田秀樹さんが訴えている事と共通点を感じたのは、数字に固執してデータや統計にとらわれすぎてはいけないという部分。
数字に表れない現実もあるのは確かだ。
難しいことを考えていると思うけれど頭のいい人は分かりやすく説いてくれている。
でもまだ分からないことがあり、本のあとがきには”分かるということは共鳴すること”だとあって養老孟司さんは飼っていた猫と共鳴していたそうだ。
そう言えば猫と一緒の表紙の本があったのを見たことがある気がする。
飼っていた猫と言うから既に存命ではなく亡くなったのかもしれない。
ところでこの本は読む前に気づく他の本にはなかった開きやすさがあった。
というのも開きやすいように表紙の裏表に折線というのだろうか、それがあったのでスムーズに開けて今までこんな本があったかなと珍しいと思った。
本は読み終えたけれど、まだ読み取ってはいないと自分でも思う。
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